特別でないということ

 喉の奥が苦しい、と思った時にはもう、目が覚めていたのだと思う。暑さと湿気で、空気に粘性がある、照明も自然光も無いはずなのに眩しさがある、そんな錯誤を、わかっているのに振り切れない。もがくように何度か寝返りを打つ。それでも呼吸することへの消耗が消えない。時計は午前三時を指していた。携帯電話を懐中電灯がわりに、ロフトからはしごを下り、キッチンへ向かう。ヤカンに水を入れ、ガスコンロの火にかける。ロフトの下の位置で寝ているはずの同居人を見る。痩せている背中は静かな呼吸を示していた。安らかに。
 自分が今の自分でなかった頃の夢を見ていた。変わらぬまま現在に至り、そして誰もそばにいないのだ、と勘違いしてしまうような夢を。湯がぐらぐらと湧くのをじっと見ている。同時に背後で物音がした。床の軋み、喃語めいたあくび。
『まだ三時……、何? どうしたの?』
 同居人は持ち上がりきっていないまぶたと戦いながら、こちらをしばらくじっと見る。見つめあう。
『……誰?』
 その答えの出る状態にいま自分はないのだ、ということを伝える言葉を探すが、見つからない。
「わかんない」
 コンロの火を止め、取り出してあった急須と自分のマグで、ほうじ茶を淹れる。
『あー、ずるい、私にも淹れてよ』
「誰だかわかんない人にお茶淹れさせるのどうかと思う」
 と言いながら同居人のマグも取り出し、残っていた湯で茶を注ぐ。同居人が常夜灯だけを点けた。そしてダイニングテーブルの椅子に座り、こちらへ催促の視線を刺してくる。マグをひとつテーブルに置いて、自分は側の壁にもたれる。
『7割ぐらいは、私の同居人かな、って思うよ』
「低いなあ」
 茶を一口飲み込む。凍っていた喉が解けていくのがわかる。
『でも傘は持つでしょう』
 同居人が、吐息で茶を覚ましながら言う。
「天気予報かよ、持つけどさ。残りは何なの」
『なんか痛々しい感じ』
 なんかとはつまり何だよ発言を具象に寄せろ、と言いたいが、寝起きの悪いこの人にそれを問うても意義はさほど無い。この不安は寒さや痺れに似ていて、痛みとはきっと違うものだ。だから熱い茶がおいしい。
『んん、きみが私の同居人で無いとしたら、手負いの獣……かな』
 茶を覚ます呼吸の休憩のように、同居人は言う。
「ついに獣と人の区別もつかなくなったんです?」
『比喩だよ察してよ、要するになんか……迷子が迷い込んできたとか。玄関は鍵かかってるはずだけど、まあ実際に今いるんだから仕方ない』
 確かにその比喩は的外れではない。僕はただ、悪い夢に、平衡が揺るぎそうになっているだけだ。重ねて言うなら、僕はもう庇護されるコドモではなく、自分で帰路を探さねばならない。道はわかるのだ、けれど、ここを帰る場所にしていていいのか、迷ってしまった。
 この人は、僕を見ない。全ての人を、区別できない。例えるなら、目と耳を塞いで、触覚だけで文通をしているような状態だ。実際には視覚も聴覚も失われてはいないのに。だから僕の歪さをも認識しない、一緒に居ても問題がない。けれどその問題のなさは一方的だ。僕ではない他の誰かが側に居ても同じで、それがたまに、肌を刺すような寂しさをもたらす。身勝手な矛盾であるのは、同居することになった時にはもう、わかっていたのに。
『……"きみ"がね、……さて、きみでいいのかな。まあいい、とにかく"きみ"がだ……さっき、死んでしまったんだよ。後日"きみ"の告別式にも参列した。そういう夢だった』
 同居人が、マグの持ち手を無視した持ち方でマグを包む。視線は茶の水面を覗き込んでいる。
『不死者でない限りは誰だって死ぬ。その事を忘れていたのかもしれない。だからさっき、きみを見て、動転したよ……私はついに壊れたのかな、って。そうだろう、死者が湯を沸かしているだなんて』
「忘れた方がいいよ。未来に不幸しか産まない夢ならば、忘れてしまうのがきっと一番いい」
『そもそも、私は"きみ"が死んでも、きみから"きみ"が失われたことに、真には気付けないんだ。それが寂しい。このことが私たちの関係の前提なのは知っているよ。それでも、寂しいんだ』
「あなたが普通じゃないからこそ、僕はここにいるのに?」
『自分が正常だと思うの、そろそろやめない?』
 回答拒否。何を言っているんだか、という顔で茶に口をつける。
『私は、"きみ"が、嫌いじゃない。これは、だめなのかな』
「……僕があなたを、弱みに付け込んで、騙して傷付けて利用して、好き勝手していても?」
『その点は大差ないさ、私だって勝手をしている。そもそも、逃げたければ逃げるよ』
 この人は、自身が逃げるという選択肢を持っていない事を、わかっていない。
『約束……というよりは予測かな、私は"きみ"の側にいるよ。"きみ"が私を好きで、私が私である限り、きっとね。……だから、なるべく生きていて欲しい。私のせいできみが失われるのは、もう、ごめんだ』
 それは、傲慢ではないのか。
 けれどその傲慢はこの人の根幹で、だから、僕は否定することができない。

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 手紙はこう締めくくられていた。
『未来に不幸しか産まない夢ならば、忘れてしまうのがきっと一番いい』。
 それは僕の言葉、だったはずだ。
 手紙を持ってきた、あの人の妹は語った。色々な物語を。そして僕に、あの人とのことを訊いた。
 けれど僕にはもう、言葉がなかった。あの人が、一緒に持っていってしまったから。
 僕が救えなかった人のことなど。
 僕を救っていった人のことなど。

 未来に不幸しか産まない夢ならば、忘れてしまうのがきっと一番いい。

2016年6月8日