花が枯れる

 ピアノを弾いてみたかったんだ、とその聖職者は言った。
「幼いころさ、身の回りに楽器らしい楽器が無くてさ」
 消えそうな声量なのは、個室ではないこの病室に気を使っているだけだからではない。聖職者は、寝台から左腕を持ち上げて、指を鳴らして見せる。音はさほど響かず、私が首をひねると、聖職者は、ごめんごめんと笑い、少し咳き込む。
「楽器があるとしても、手が2つあるとか、喉とか、そういうのだけ」
 持ち上げられた腕は下ろされ、目に影を作っている。
「事典で絵としては把握してた。ひとが寝そべれるぐらいの大きさで、黒くて、脚があって、蓋が開いて、その中には弦が張られている。椅子に腰かけて、並んだ棒状のキーを叩くんだ」
 どこか一点を見つめているその瞳は、私という聞き手の存在を覚えているのかどうか。痛み止めや何やかやで薄いだろう意識は、半ば夢見ながら、その唇を動かしているのかもしれなかった。
「音も知ってたよ、蓄音機越しでだけど。一曲だけ、音のよくわかる音盤があったんだ。上等な布、ビロードみたいな、そんな音だと思った。でも、こういう根拠の薄い例え、相棒に言うと、馬鹿にされるんだよねえ」
 私はそんなに馬鹿にしていただろうか、と少し考えて、結論は出なかった。まったく覚えがないとは言えない。
「ピアノを入手することも、借りる自由もないのに、知識だけあった。そんな後悔が多いんだ。悔やむ甲斐もない後悔が。星の光に手が届かないのは当然だ。恒星は燃えてるんだよ。勝利条件は太陽に焼かれることじゃない。光らない星にだって価値がある、そこに何かが住めるから。音盤を聞いて踊っていた私の心は、それ自体が価値だったんだ」
 時間です、と看護師が告げる。
 また来ます、と私は聖職者に言う。伝わったかどうかは、わからない。
「最後に一つだけ。名前が、太陽に仕える双子の神官、だからって、そうである必要は無いんだよ、ってあいつに伝えてくれるかな」
 左手を軽く握ると、聖職者は目を閉じた。

2016年10月5日