成り代わるもののない空隙

 あの人はまだ、帰ってきていない。
 今のところ予定通りであり、だから何ら焦ることはないのだけれど。

 夕暮れが過ぎ、外が暗くなる。カーテンを閉めて、室内の灯りを点ける。夕食の仕込みはとうに終わっていて、やる事も無くなってしまった。なんとなく浴室の扉を開けると、がたんと大きく音が響く。この近辺は公園や学校などが遠いせいか、昼間でもとても静かだ。以前いた施設よりも静かかもしれない。自分の吐息が聞こえるくらいに。胸の内の空隙が、冷たさを増すくらいに。
 吸いこんだ空気が、気道を通り肺の中で、とても冷えているような錯覚に、ふと気付く。
 そのまま服を脱いで、浴室に入り、シャワーの蛇口をひねる。湯の熱さは体を温めてくれた。けれどそれだけだった。
 せっかくなので洗髪などを済ませ、髪と体を拭いて、着替えを持って来ていない事を思い出す。どうしようかと考えた行動にちょっと可笑しさがあり、しばらく笑う。それから、裸のまま脱衣所を出て、衣装ケースから着替えを取り出し、そのままそこで着てしまう。前ならこんなことは許されなかった。前ならば。今は、今だ。知っている。
 脱衣所の横の洗面に陣取り、髪にドライヤーをかける。この轟音が、ずっと好きになれなかった。あの人のように、あるいは一般の人のように、普通の長さに切ったら、手入れは格段に楽になるだろう。そう思うことさえ、最近はある。この大事な、父が唯一褒めてくれたこの髪を、だ。もちろんわかっている、その父を手にかけたのが誰なのかは。胸の空隙は、凍傷のようにひりつき、自己主張し続けている。
ひとしきりドライヤーを響かせて、ようやく髪が乾いた。クシをかけ、結う。もう夜なので、ゆるく。

 ぎゅっと抱きしめて欲しかった。
 背中をさすって、大丈夫だよと言って欲しかった。
 今すぐあなたの所へ駆けて行きたい、もし出来るなら飛んででも。
 濃厚なキスをして、あなた以外の何もかもを忘れたいんだ。このさみしさを、空いた穴を、それを都合よくあなたで埋めようとしているオレを。

2018年10月2日 初出