この場所にオレが住まわせてもらい始めてから、だいたい半年が経つ。
それ以前のことは、いまだに、ひとかけらも、思い出せていない。
木に咲くピンク色の花たちは、明日の雨で、完全に散るだろう。
さくら、という名前なのだそうだ。
記憶喪失、だなんて。自分のことながら、結構な非常事態だとも思う。
けれどここは、傷ついた人だらけだ。
記憶喪失だけで、生活に支障のない自分の症状が、些事に思える、ほどに。
病室に戻ると、同室のTさんが悪態をついていた。そんなことはこの半年なかった。恐れよりも心配が先に立って、その背に声をかける。
『どうかしましたか?』
そうしてから、こういう時、放っておかれたい人もいる、ということを思い出した。
「いや、ごめんね。要らない物寄越されて、困っちゃっただけ」
顔をこちらに向けて、思い出したようにTさんは苦笑する。
ベッドの上には、段ボール箱がある。衣類が詰まっているように見えた。
「着替えは助かるんだけどね」
と、Tさんは何かを掲げた。
オレの頭より少し大きいぐらいの、動物の形をした、布製の、人形だろうか。人形と言っても、ヒトのかたちではないけれど。
『……それは?』
「ああ、これもわからない? これはね、クマのぬいぐるみ。テディベアとも言うかな」
知らないことが多いのは、記憶喪失なら当然なのだろうけれど。オレのこれは、少し性質が違う気がする。その違いを感じるたびに、喉の奥に氷を詰められたかのような錯覚が湧く。息が苦しくなる。
Tさんはオレをずっと、じっと見ていた。そしていつもの、口元だけの笑みを浮かべる。彼いわく、「あなたと戦う気はない」の意思表示の笑みを。
「クマの手を強く握ってみて」
と、Tさんはそのクマをオレに抱かせた。言われるがままに握ってみる。
「【ダイスキ ダヨ】」
機械とヒトとの中間のような、妙に高い声で、クマは喋った。驚いて、クマを落としそうになるのを、慌てて抱き直す。
「喋るおもちゃだよ。そんなの寄越して母は、私のことを何だと思ってるんだか」
オレは話を聞いてはいるのだが、Tさんの言葉が耳に入ってこない。なぜか涙が出そうになるのを、なぜか必死にこらえている。今は泣いてもいいはずなのに。危険は何もないのに。
「欲しいなら、あげるよ」
『……名前は、あるんですか?』
「それの? どこかに書いてないかな」
どこか、と言われクマをひっくり返したりしていると、耳についていた布に書いてあった。"Addy"。
「読みは、アディ、だね」
『アディ……』
オレがクマを、ではなくアディを見つめていると、Tさんは段ボール箱に向き直る。
「さーて、これ、片付けなくちゃね。寝る場所ないし」
そして、みっしり詰まった衣類を、めくっては仕分け、めくっては仕分けし始めた。
オレはアディを抱いたまま、少し思いを馳せる。
この半年、オレは先生とさまざまな治療を試した。
その中に、オレが人形を持って役を演じるものがあったことを、今、思い出す。その時はうまくできなかったけれど。
『君となら、違う結果になるかもしれないね』
「【ドッチニ セヨ オマエ シダイ】」
あ、この一人芝居、意外に楽しい。
『そうかな。二人次第、じゃない?』
「【ボクハ シラナイ ヨ ショセン オモチャ ダ】」
『ひどいなあ』
考えずとも言葉が出てくるほどに、この一人芝居はしっくりくる。
まるで、"アディ"が本当に居るかのように。
……僕は。
僕ははじめから玩具だった。
オレは人間として、愛されようとした。
僕たちの違いは、それだけ、だったのだと思う。
僕ははじめから諦めていた。知っていた。自分が玩具だと。
だからオレは絶望した。知らなかった。自分が玩具だと。
オレが、世界でただ一人の他者を弑したとき。
その時、僕に湧いた感情が、僕はいまだにわからない。
けれどそれは、少なくとも、悪いものではなかった。
だから、僕は僕をオレに任せた。
絶望したオレが何をするか、予想できていて、それでも。
だって僕は、自由を享受することも、もう、できない。それを知覚する力は、とっくに捨てていた。
そのゴミ溜めから生まれたのが、
[お誕生日おめでとう!]
--アディに添付されていたメッセージカード
了
2021年5月29日 初出