アアズナウトの原木

 あの日は、沈み終わった太陽の残照の色が綺麗だ、というのが印象に残っている。
 音楽室の窓から外を見つめる先輩は、長い髪を切る前だった。
「アナタは、アアズナウトを知っている?
 アアズナウトはね、言葉だ。
 アナタ以外の誰にも通じない、言葉だ」
 先輩は、やけに芝居がかった鈍い動作で、振り返って言う。
 でも先輩の仕草が芝居がかっているのは、普段通りでもある。
「アアズナウトは祝い、呪う。
 アアズナウトは奪う――アアズナウトを知らないアナタを。
 ワタシ? もう奪われたよ」
 私の表情から察したのだろう、先輩は肩をすくめる。
 廊下側に居る私に背を向け、窓の鍵を閉めにかかる。
「嘘なんか言っていない――
 けれどそれだけでは、事実であるということには足りない。
 とにかく、アアズナウトはいたよ。ワタシの日記にそう書いてある」
 私は、冗談だと決めてかかったことを後悔しつつあった。
「別にアアズナウトは怖いものとは限らなくて――
 確かにワタシはアアズナウトを良く思わないけれど。
 アアズナウトが例えば悪いものを奪っていってくれたとしたら、アナタの人生はどうなるだろう?」
 ピアノの蓋を閉める先輩の横顔に表情は無かった。
 冗談ならきっと先輩は、楽しそうに、朗々と歌い上げるだろうから。
「アナタにアアズナウトの話をした。
 これでワタシはアアズナウトを忘れる。
 アアズナウトの、ふたつめの性質だ」
 ……あれ、ひとつめって言われたっけ? 設定考証甘い?
「ワタシはワタシの欠落をも忘れるだろう。
 けれどそんなのは、どこにだってある話だ。
 ああもう思い出せない――アアズナウトはワタシから何を奪った?」
「アナタは、アアズナウトを知っている。
 ――ところで、アアズナウトって、何だっけ?」
 それを問う先輩の顔が、嘘をついている人間の顔には見えなかったけれど。
 なんだか可笑しくなったので、「鍵閉めるんで忘れ物しないでくださいね」と、私は急かした。

【了】

2014年4月28日