日差しのきつい昼下がり、特に何もなく平穏な日々に私はいた――いたはずだった。
「おじゃましまーっす」
隣人(もしくは幼なじみ)が我が家を訪ねて来たのが間違いの始まり。
「いらっしゃーい」
彼とは古い付き合いで、って「きゃああああ!?」
そこにいたのは包丁をもった男(もしくは幼なじみ)。
「なんでもするからっ、お願い!」
「突然なに、そんなもの持って! なんのお願い!?」
「俺をこれで刺してくれ」
自殺幇助のお願いなのか――だが、それは語尾にハートマークがつくものだろうか?
結論はひとつ、なんて事だろう――彼は変態だった!
「帰れ変態! 蚊にでも刺されてろ!」
「やめて危ない投げないで、ちょっ筆箱っコンパスはマジやばいっていやああああ! おまわりさーん!」
「警察呼ぶのはこっちだよ! この銃刀法違反野郎!」
「お前んちのじゃなくて俺んちの包丁だからセーフだろ!?」
「だからアウトなんだよ馬鹿帰れこのイケメンが! その顔どぶに捨てて全国のみなさんに謝れ!」
「そうしたらいいのか?」
「は?」
「行ってくる!」
彼は包丁を置いて逃げた――のではない、台所へ向かっている! 何をするつもりだ? 何と、我が家の魔窟、キッチンシンクの三角コーナーに頭を突っ込んだではないか!
そして顔を上げ、言う。
「……捨てるってどうしたらいいの?」
「あんた自身を燃えるごみの日に出したらいいんじゃないかな……」
こいつ、普通の変態――ではない?
馬鹿(もしくは幼なじみ)が突然狂うものだから、日差しのきつい昼下がりは壊れていく。
とかく私は事情を聞いてやる事にした。
「何がどうしたの?」
「何らかの刃物で、俺を、刺して欲しいんだ」
「警察行きたくないし、やだ」
「りんごの皮剥いてたら手が滑ったって言うから大丈夫!」
大丈夫じゃねえよと殴っても駄目そうなので、話の続きを促してやる。
「もう刺して欲しくてどうしようもなくて、でもこんなこと頼めるのお前だけなんだ、頼むおねがい」
「だからなんで刺されたいの?」
「……恋わずらい、かな?」
「うん、病院に行こう。何科に行けばいいのかな」
「病院は刺してから行くんじゃないの?」
「すでに頭がおかしいよ」
「おかしいのはお前だよ!」
「帰れ変態!」
「違う、恋に燃えてるだけだ!」
「……ごめん、理解できない。馬や鹿にもわかるように説明してくれないかな」
「えー……」
「死にたいの?」
「違うよ、むしろ刺されないと生きていけない」
「マゾなの?」
「痛いの嫌いだし」
「恋したって誰に?」
「俺の学校の舞ちゃん」
「よかったねー」
「凄く可愛い」
「聞いてないから」
「で、舞ちゃんに刺されたんだよ」
「は?」
「美術の時間に、彫刻刀で事故ってぶしゅーって、ほらここ」
「見せんなキモイ、それがどうしたの」
「いやもうそのときのね、舞ちゃんの笑顔ったらすばらしくて! それで意気投合して、舞ちゃんに何度か刺してもらってたんだよおほら」
「見せんなキモイ、じゃあ舞ちゃんに刺してもらいなさいよ」
「いま舞ちゃん入院してるんだよ、しかも大部屋。個室じゃない。人目があるとさすがに」
「は? それでなんで私のところに来るわけ?」
「刺されたくて……」
「私に?」
「こんな事他の奴に頼めないし」
「だからって私に? 刺してもらえればいいなって? うわ誰でもいいんだ、サイテー」
「違う! 俺は舞ちゃん一筋だ!」
「どこがよ」
「舞ちゃんから委任状もらってるし! ほら!」
「はあ? ふざけんのもたいがいにしろよ、何なんだよあんた」
「……ふざけてないもん、だから刺してよ」
「嫌だって言ってんのが聞こえないの?」
「じゃあ何したら刺してくれる?」
「そうじゃなくて、あんた舞ちゃんが好きなんじゃなかったの?」
言葉を投げつけてやると、イケメン(もしくは幼なじみ)は顔を赤らめる。
「照れんなキモイ」
「それほどでもないッス」
「あんた私に刺せ刺せって言って、誰だっていいってことでしょキモイ」
「舞ちゃんのことが好きすぎて辛いんだよ……」
「はあ?」
「刺してもらえたらきっと舞ちゃんのことを思い出せると思うんだ」
腰が抜けた。
「イケメンのくせにどーしよーもねーばかがいる……」
こいつばかだ。
ほんとのばかだ。
「なんかお前、言葉が汚くなってないか?」
「今気付いたのかばかやろー」何か月ぶりに会ったと思ってるんだ、見ない間に私の身長抜かしやがって。
「とにかく早めにやってもらえないかな、病院が閉まる」
「なんで私に頼むの……」
「なんでって」
「ねえ、なんで!?」
「そりゃあ……」
お前が俺のこと好きだからだろうよ。
そんなふうに聞こえたのを、嘘だと思いたかった。
太陽が沈む。
奴は、持参してきた包丁で林檎を剥いている。本当に刺してやりたいが、望み通りにやってやりはしない。
「ねえホントに刺してくんねえの?」
「やーだー」
「泣かして悪かったのは謝るからさー」
「だーめー」
「はいできた、なんかリス的なもの」
「うさぎじゃん」
「りすだよ、こっちお前な、でこっち舞ちゃん」
「明らかに私のやつ不細工じゃねえか」
「リアルに忠実に」
「それはないわー」
「だよなー」
「あんたが言いなや」
「みかんも剥こうか?」
「手で剥けよ」
「じゃあ、はい」
と、奴は包丁を手渡す。
「おいおかしいだろ」
「じゃあ刺せばいいじゃない!」
「わかった」
「やったあ、て、」
そう言うのだから刺してやった。
何度も。
何度も。何度も。
倒れた奴の手をなんとなく掴むと、めくれた裾の端から傷跡がのぞいた。
それは切り傷ではなかった。
こんな大きい傷に、どうしていままで誰も気づかなかったのだろう。誰か気づいてさえいれば――
ああ、あっちの学校は水泳の授業も選択性だったな――そして、壊れた居間に夜が訪れることはなくなった。
おしまい
2010年2月20日